>>地名・歴史
町名の由来
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【あ】

赤坂町(あかさかまち)

 町名は、この土地の土が赤く、坂が多かったことに由来するという説がありますが、定かではありません。「赤坂」の地名は古く、現在の「高崎」の名前が生まれる以前には、高崎全体の名前が「赤坂」だったこともあり、平安時代の中ごろには、すでにこの名があったとされています。「赤坂」には榎が多く、「榎の森」とも言われ、昔は鎮守赤坂明神の祠がありました。慶長3年(1598)井伊直政が、箕輪から高崎に城を移し、城下町を建設したとき、赤坂村から本町をはじめとする多くの町を分立させましたが、残りは「赤坂村」のまま残っていました。名主落合七兵衛の願いにより、本町から170年ほど遅れた、安永2年(1773)に町として成立しました。 
なお、町内には、高崎の総鎮守となる高崎神社、曹洞宗の松隆山恵徳寺、赤坂山長松寺があります。

旭町(あさひちょう)

 町名は江戸期の遠堀に架かる橋の名と、高崎の町の東端の意味とでつけられたものです。県内では前橋市に朝日町、朝日が丘町があり、館林市にも朝日町があって、いずれも町の東方に位置することから付けられた名前です。
江戸時代、西境の通町との間には、高崎城の遠構えの堀が南北にあり、旭町は鉄道輸送の発展とともに物資の集散が頻繁となり、駅周辺は賑わいました。昭和41年(1966)、高崎の市街地と駅の東側とをつなぐ地下立体交差が開かれ、これによって東側の開発が進むようになり、やがて隣町の「東町」が誕生しました。さらに昭和50年(1975)に、旭町には高崎倉庫跡に高島屋デパートとダイエーができました。

東町(あずまちょう)

この町は文字どおり、市街地の東に位置している町で、付近一帯はもと赤坂村の一部で、字中沖といわれていました。昭和10年(1935)、町が成立したときには、高崎市の東端に位置していました。町名は西隣の「旭町」と同じように、市の東方の地という意味です。
地内の無縁堂跡に、明治2年(1869)高崎藩領内で年貢減免を訴える「五万石騒動」がおこりました。これに参加した農民の代表で、斬首刑になった佐藤三喜蔵、高井喜三郎、小島文次郎の三総代、牢死者、入牢者を祀る「五万石義人慰霊堂」があります。
このあたり一帯は、昭和に入るまでは小口の製糸工場と、東京電力の変電所、大正15年(1926)に建設された市営住宅があるほかは、水田が広がっていました。
昭和2年(1927)、群馬郡塚沢村が高崎市に編入されると、市が駅東側の開発を手がけはじめ、東三条通りができ、江木から東町にかけて、理研コンツェルンの諸工場が、軍需工場として誘致されました。

あら町

 この町は、江戸時代に町が誕生したときから「新町」の表記をしてきましたが、高崎市が、平成18年(2006)1月多野郡新町(しんまち)と合併することとなり、表記上の混同を避けるため、平仮名に改めました。
城ができ、城下町ができたときからの商人町で、町名は和田氏が城主であった時代の金井宿、馬上宿のほかに「新しくできた町」という意味で、「新町」になったと伝えられています。
この町からは、砂賀町への東小路と、桧物町への西小路があり、西小路は湯屋横丁とも言われていました。元禄16年(1703)の絵図によると、塩屋12、荒物屋10、殻屋9、酒屋8、小間物屋6、旅籠6のほか、煙草屋、紺屋、ふるい屋などの店があったことがわかります。
高崎藩の城下町経営政策として、絹市は田町、旅館は本町とあら町、紙販売は連雀町に限られていました。元文3年(1738)からは、この町に煙草市場が開設されるようになりました。このため、かなり遠方からの煙草仕入れの商人も多く、旅館業が多くありました。
また、享保2年(1717)には、高崎ではじめての飛脚屋である、江戸の島屋左右衛門の出張所がこの町に置かれました。これよりも早く、元禄年間(1688〜1704)には、和倉湯、天狗湯、有馬湯などの湯屋が出来ています。
明治17年(1884)鉄道の高崎駅ができると、駅前通りができ、茶屋、荷物運送業などが盛んとなり、高崎15連隊の入・除隊関係者の宿泊場所としての旅館業などが繁盛するようになりました。
昭和32年、駅前通りは拡幅され、町の姿は一変しました。平成9年にはシンフォニーロードができ、周辺の景観はますます変化しています。

歌川町(うたがわちょう)

 この町は明治4年(1871)赤坂村から独立してできた町で、町名は常盤との境界を流れる用水に、「歌の橋」という名の橋がかけられており、この橋にまつわる伝説から「歌川町」の名がつけられたものです。
その伝説は、昔、藤原定家と藤原家隆が「歌の橋」にて、ここで互いに歌を詠みあい、そして定家は烏川の左岸沿いに佐野の方へ向かい、家隆は石の舟に乗って烏川を渡り、乗附に至ったというものです。下佐野には「定家神社」があり、乗附には「家隆神社」と「お舟石」とがあります。
歌川町のあたりは江戸時代には中山道が通り、戦後しばらくの間、安中、松井田方面、里見廻りの室田、榛名方面域のバスが通っていました。町の北方、烏川左岸際にある小島鉄工所は、文化6年(1809)に創業の、市内では最も古い歴史を持つ工場です。

江木町(えぎまち)

 高崎中心市街地の東方からやや北よりに位置する町です。
江木町の辺りは、井野川支流の一貫掘川流域の平坦地で、町の中央を長野堰が流れています。「江木」とは水田灌漑用の水路が枝葉のように沢山あることを意味する言葉です。現在の姿からは想像できませんが、明治以前のこの辺り一帯は、広大な農地が広がっていました。
「江木」の地名は古く、戦国時代の『北条氏邦(うじくに)朱印状』に「縁喜之郷(えぎのごう)」の文字が見られ、また「惠木」とも書きました。
江戸時代からの「江木村」は、明治22年(1889)塚沢村の大字となり、昭和2年の高崎市への合併後も、「大字江木」のままでした。町となったのは、昭和26年のことです。その後、町内の一部が飯玉、稲荷、日光、天神町となり、62年には一部が芝塚町となりました。
町内を国道354号線が走り、東三条通り、高崎駒形線が通っています。また、町の北部には昭和15年に創設された県立高崎工業高校があります。
参考文献: 田島桂男『高崎の地名』(2009年)、 田島桂男『本町今昔物語』(2004年)、 田島桂男『たかさきの町知るべ』(2000年)、 都丸十九一『続・地名のはなし』(1995年)、 高階勇輔『高崎産業経済の歴史』、 郷土出版社『目で見る 高崎・安中の100年』(2006年)、 岩波書店『広辞苑 第五版 逆引き広辞苑』、 『新編 高崎市史 通史編2 中世』(2000年)、 『新編 高崎市史 通史編3 近世』(2004年)
 
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