>>地名・歴史
町名の由来
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【か】

鍛冶町(かじちょう)

 江戸時代の高崎城下にあった職人町の一つで、市街地のやや南よりに位置している町です。北は檜物町、西は宮元町、南は若松町、東は下横町に接しています。
この町は、高崎に城下町ができはじめたときからの職人町で、箕輪から職人とともに町の名前まで持ってきた町です。慶長年間のこの町の住民はすべて刀工、鍛冶職人でした。この町には、その名を全国的に知られていた守重、守次、守行らの刀工もいました。
「鍛冶町」の町名は、全国的にも城下町であったところに多くに存在しています。県内では沼田市に現存し、前橋市、館林市、伊勢崎市にもありました。

嘉多町(かたまち)

 この町は、熊野神社(現高崎神社)から真っ直ぐ東へ延びたころにあり、江戸時代には通りの北側だけに藩の組屋敷があり、本町の支配で「片町」と呼ばれていました。その後、武士以外の町人も住みつくようになり、安永3年(1774)になって「片町」は本町から独立することとなり、町名を同じ「カタ」であるが、文字を「嘉(よろこ)びが多い」に替えました。南側にも家が建ちはじめたのは、明治5年(1872)以降のことです。
町の西方、堰代町との境には、天正8年(1580)創建の浄土真宗本願寺派の至心山信楽院覚法寺があります。この寺は東向きであったが、都市計画、道路拡張のため、本堂を動かして高崎神社前の道路に面し、西向きとなりました。
覚法寺は、明治7年(1874)4月開校の、「嘉多町小学校」の仮校舎に充てられました。

北通町(きたとおりまち)

 江戸時代のはじめ、慶長年間に中山道が整備されたときには、江戸へ下るのに、赤坂、本町、椿町、九蔵町、北通町、通町を経て倉賀野宿へ向かっていました。しかし、この町には藩士の組長屋があり、町としての独立はなく、「通町」の北につながる意味で、明治4年(1871)になって「北通町」と名付けられました。
この町にいた武士のなかには、明治維新後、手に職をつけた人が多く、かつては、大工、左官、家具、篩(ふるい)、印判などの職人の家が軒を並べていました。

九蔵町(くぞうまち)

 慶長6年(1601)に、後に須藤、反町、梶山と共に、高崎の基礎を築いた4人集のひとりである北爪九蔵が居住し、のちに人家がふえて九蔵が町名主を命ぜられたことによります。北爪(きたづめ)九蔵は大阪冬の陣の時(1614)にて藩主酒井家次に従って出陣し、大阪城一番乗りを果たしました。九蔵はその戦功によって町を賜ったと伝えられています。
明治8年(1875)、赤煉瓦のハイカラな西洋建築の「第二国立銀行高崎支店」が町内に開設されました。これは県内では最初の銀行で、金融、商業、産業界の中心になりました。昭和6年には、町内に「高崎商工会議所」ができました。
九蔵町には寺が3つあり、そのひとつが曹洞宗の青龍山洞珠院大雲寺です。境内に薬師寺如来をまつる石堂があり、城の「鬼門鎮護薬師」といわれています。2つ目は箕輪の日蓮宗妙福寺から移転の、広布山演詳院正法寺です。この寺の由緒は数度の類焼によって不詳とのことですが、文学僧自来の墓があり「月花の眺めはかれて虫のこゑ」の辞世の句が刻まれています。3つ目は井伊直政の家臣で、新生高崎の町割検地の任にあった西郷藤左衛門が、箕輪椿山の法華堂を移建し開基となった、日蓮宗の西郷山本行院法華寺です。
参考文献: 田島桂男『高崎の地名』(2009年)、 田島桂男『本町今昔物語』(2004年)、 田島桂男『たかさきの町知るべ』(2000年)、 都丸十九一『続・地名のはなし』(1995年)、 高階勇輔『高崎産業経済の歴史』、 郷土出版社『目で見る 高崎・安中の100年』(2006年)、 岩波書店『広辞苑 第五版 逆引き広辞苑』、 『新編 高崎市史 通史編2 中世』(2000年)、 『新編 高崎市史 通史編3 近世』(2004年)
 
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