>>地名・歴史
町名の由来
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【さ】

栄町(さかえちょう)

 もともと新後閑町、和田多中町、岩押町、下和田町の一部だった栄町の町名は、住民から案を募集し、投票によって、町の繁栄を願うという意味を込め「栄町」と命名されました。
昭和57年(1982)、上越新幹線の開通に合わせてつくられた高崎駅東口広場は、高崎駅の玄関としての役割を果たしています。平成20年(2008)には、高崎駅の横にヤマダ電機「LAB1高崎」が完成し、昔から栄町に構えていたビックカメラや他の店とともに高崎市の発展に貢献しています。平成22年(2010)現在、高崎駅東口の改装工事が行われています。

鞘町(さやちょう)

 旧城下の職人町の一つで、市街地のほぼ中央にある町です。
慶長年間、井伊直政による箕輪からの移城とともに、城下にいたさまざまな人たちも、新生高崎に移ってきました。この町へは刀の鞘(さや)をこしらえる鞘師が多く住んでいたので、「鞘町」の名がつけられました。
この町は、南北の道路がメインの町ですが、東西の小道には刃物を研ぐ研師が多く、石上寺へ出る西横丁を「研町(とぎちょう)」と呼んでいました。また、その反対の田町3丁目への道は「東横町」と呼んでいました。明治17年(1884)の文献では、町名の由来を知る人はもはや稀であると記しています。
幕末期のこの町には、漢学者市川左近(さこん)が開いた私塾がありました。この塾がもととなり、明治6年(1873)5月、公立の「鞘町小学校」ができました。この学校は、やがて「高崎学校」となり、「中央小学校」となりました。
この町には昭和2年まで俳人村上鬼城が住んだ家があり、その旧宅を示す石碑が建てられています。石碑には「俳聖村上鬼城先生旧居跡」とあり、「けさ秋や見入る鏡に親の顔」と鬼城の句が刻まれています。また、今は「さやもーる」と名づけられた南北の通りには、鬼城の句碑が2基建てられています。

下横町(しもよこちょう)

 旧市街地の南部に位置している町で、北は鍛冶町、桧物町、西は宮元町、西から南は若松町、新田町、東はあら町に接しています。
この町は、江戸時代には新町(あらまち)の一部で「下ノ横丁」といわれていましたが、明治10年(1877)城主のための菜園であった「前菜町」を併せて新町から独立しました。
町内には、旧城下では一番古い寺の治承元年(1177)創建と伝える曹洞宗の白竜山東谷院興禅寺(こうぜんじ)があります。治承元年は源頼朝が、兵士追討のために鎌倉で挙兵をする3年前のことで、この寺は天台宗の寺として開かれましたが、和田氏によって曹洞宗となりました。寺は当初城内の三ノ丸辺りにありましたが、井伊氏の高崎築城に伴い、現在地に移転したものです。明治39年(1906)この寺の住職全明鉄定は、社会事業として「高崎育児院」を境内に開設し、孤児の救済に尽力しました。
町内には高崎城とほぼ創建を同じくする曹洞宗の東陽山向雲寺があります。

下和田町(しもわだまち)

 下和田町の由来は、和田城の下に位置するということで「上和田」に対する地名です。下和田町は、中世以来「群馬郡下和田村」でしたが、明治22年(1889)「高崎町」成立のとき、高崎に合併して「大字下和田」となり、明治33年(1900)市制施行後も「大字下和田」のままでした。「下和田」の成立は明治35年(1902)のことで、このとき「大字下和田」から「八島町」と「鶴見町」が独立成立しています。
地内には、和田城主「和田義信」が文安元年(1444)に創設し、僧常覚が開基した真言宗宗真寺があり、この寺の墓地は、宅地化が進む中で墓地整理を行い、全体を若田町にできた八幡霊園に移転しました。またこの町には、明治維新によって江戸藩邸から引き上げてきた藩士とその家族の移住地の一つとして「和田郭(くるわ)」ができ、この郭は、明治4年(1871)に「竜見町」となっています。
明治17年(1884)になると、高崎から上野間の鉄道が開通し、高崎停車場が町内に置かれました。当時の一年間の降車人数は、58,100人で、一日平均470人ほどであったと伝えられています。明治30年(1897)には上野(こうづけ)鉄道によって、高崎から下仁田間に軽便鉄道が走ることになり、駅舎、駅構内の拡張が行われ、昭和9年(1934)には、小字大音寺河原に城南球場、水泳場、弓道場、相撲場などの総合運動場ができ、翌10年には上信線下和田駅(現南高崎)ができました。
地名に「上」、「下」がつけられるのは、一つの集落が大きく発展して二つに分割される場合が多く、相互に境界を接し合っていることが多いのですが、「上和田」「下和田」は、城を中にしてその「上」「下」にあったので、かなり離れた場所に位置しています。

白銀町(しろがねちょう)

 江戸時代高崎城下の職人町の一つであった町で、北は元紺屋町、西は田町、南は連雀町、東は北通町と通町になっています。
町名の由来は、この町に、白銀師が居住していたことによります。白銀師とは、銀を主に扱いますが、彫金、金物細工の職人のことで、武士の魂ともいわれた刀は、鍛冶師(かじし)、研師(とぎし)、鞘師(さやし)の手を経て完成するものでした。
この町は、もとは鞘町の支配下にありましたが、人家が増加し、分かれて一町として独立しました。しかし、それ以前に白銀師は鞘町の方へ移動しまい、町内には居らず、白銀師との縁は町名だけになってしまいました。
町の北側、元紺屋町との間には、一部に武家屋敷がありました。

新紺屋町(しんこんやまち)

 旧城下の職人町の一つで、城下の中央部やや北よりに位置しています。
この町は、城とともに箕輪から移転してきた職人や町人が多く住んでいましたが、中でも紺屋職人が多くいました。町名は「元紺屋」に対する「新紺屋」の意味でつけられました。
明治13年(1880)に大火があり、町の大半が焼失してしまいましたが、そのあと田町にあった劇場の藤守座がこの町に移転してきました。この藤守座はやがて会社組織となって、活動写真館となり、名称が「世界館」、「第二大和(やまと)」、「松竹映画劇場」、「オリオン座」と変わりました。
また、大正9年(1920)市内で初の本格的な劇場である「高崎劇場」が開業しました。この劇場では、歌舞伎・寄席・舞踊などの演芸から、政治演説会などの多目的文化施設としても利用されました。昭和13年(1938)東宝映画に買収され、全館椅子席の映画館に改装されて東宝になりました。その東宝も、平成22年(2010)現在取り壊されています。
現在の新紺屋町は中央銀座通りを形成し、商店街となっています。

真町(しんちょう)

 旧城下町の東部に位置していた武家町の一つです。北から西は羅漢町、南は通町、東は旭町と接しています。
この町には江戸時代、下級武士である足軽クラスの武士の住まいであった、いわゆる足軽長屋がありました。江戸時代の記録には「この町に町家なし」とあります。町の中を東西に通る路地は、組屋敷であったころの名残を示しています。
この町は、江戸期には「新町(しんちょう)」と表記されていましたが、高崎三伝馬の一つで、商人町の「新町(あらまち)」と同じ文字であったため、明治になって「真町」と改められました。

新田町(しんでんまち)

 旧市街地の南部に位置する町で、北はあら町と下横町、西は若松町、南は南町、東は八島町と鶴見町に接しています。
この町の辺りは、もとは赤坂村の字新田と呼ばれていたところで、慶長11年(1606)に時の藩主酒井家次が、城下町経営の政策として、新後閑村の民家を移住させ、新たに町として築きました。町名の「新田」は、この地が赤坂村の字「新田」であったことによりますが、この新田は古くからの新田ではなく、新たに未開発地を水田化したところの意味で、その時期は、戦国時代のことと考えられています。
当初の中山道は、通町を通っていましたが、「新田町」を作るのに伴い、田町、連雀町、新町(あらまち)、新田町、南町の通りに移されました。
この町と南町との境には、藩の木戸と番所が置かれていました。

砂賀町(すながちょう)

 この町は新町(あらまち)の東小路で、新町の支配下でした。そこに福島道通町方面に動膳橋を架けた、医師の砂賀動膳という人が住んでいました。時が立つにつれ、人家が増えて一町となり、城主がこの砂賀の名から「砂賀町」と命名されました。明治35年(1902)には、南小学校の西側に位置した、もと城主家人の家が10軒あることから名づけられた武家町「十人町」の一部を組み入れました。
大正期には豆腐商組合の事務所が置かれていたことがあり、明治以降は商店街として栄えました。

堰代町(せきしろちょう)

 堰代町は市街地の北よりに位置し、高崎神社の鳥居前から南に広がる町であり、明治6年(1873)になって、高崎宿全体の用水管理を行った堰方役人の「堰」と、城代組の「代」の字を合成させて命名され、町として誕生しました。
江戸時代には、高崎神社の前身である熊野神社がこの地に鎮座し、この神社を挟んで北側は堰方役人の屋敷と長屋とがあり、南側には城代の組屋敷がありました。現在は小路に沿って家が立ち並ぶ住宅地になっています。
参考文献: 田島桂男『高崎の地名』(2009年)、 田島桂男『本町今昔物語』(2004年)、 田島桂男『たかさきの町知るべ』(2000年)、 都丸十九一『続・地名のはなし』(1995年)、 高階勇輔『高崎産業経済の歴史』、 郷土出版社『目で見る 高崎・安中の100年』(2006年)、 岩波書店『広辞苑 第五版 逆引き広辞苑』、 『新編 高崎市史 通史編2 中世』(2000年)、 『新編 高崎市史 通史編3 近世』(2004年)
 
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