>>地名・歴史
町名の由来
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【な】

中紺屋町(なかこんやまち)

  紺屋職人が多くいる町で、元紺屋町と新紺屋町の間にあることからこの名前がつきました。旧城下の職人町のひとつで、市街地のほぼ中央に位置している町です。
このまちから出る横丁が2つあり、ひとつは「西ノ横丁」、もうひとつは「東ノ横丁」と呼ばれていました。「東ノ横丁」は古着屋が多かったため、「古着屋横丁」とも呼ばれていました。
町内には、八幡町護国寺末の真言宗の真珠山妙建院玉田寺があります。この寺は旱魃のとき城主の要請によって、雨乞いの祈願をするのが慣例になっていました。またこの寺の境内には、時を知らせる「鐘つき堂」があり、この鐘の音は、片岡地区の集落にまで響き渡ったと言われています。この鐘は、第二次世界大戦下の昭和18年(1943)供出、鐘楼は昭和20年代の終わりごろまで設置されていました。

成田町(なりたちょう)

 市街地の北部に位置する町で、北は請地町、北から東は末広町、西は相生町、四ツ屋町、南は本町となっています。
この町は、もとは赤坂町の一部で、あたり一面に田が広がっていました。ここへ明治9年(1876)に廃寺となった城主大河内家の祈願所、威徳寺を移築し千葉の成田山新勝寺の不動尊の分影を安置し、新義真言宗智山派の成田山光徳寺ができました。この寺の門前をはじめ、周辺地域は明治30年代になって急速に発展し、明治35年(1902)に町として成立しました。町名は光徳寺の山号からとったものです。
【は】

檜物町(ひものちょう)

 「檜物」とは、檜(ひのき)や松などから薄く削り取ったものを曲げて作る「曲げ物」のことで、当時、食器や勝手用品としてかかせないものでした。町名は檜物師という、「檜物」を作る職人が多く住んでいたことから命名されました。
この町には藩の番屋が置かれ、また江戸時代城下にあった職人町の一つでしたが、商人の家が増え続け、明治には個人商店の多い町になっていました。
【ま】

南町(みなみちょう)

 江戸時代からの城下町の一つで、市街地の南に位置しています。北は新田町、西から南は竜見町、南は和田町、東は鶴見町に接しています。
この町は、高崎城主が安藤重信だった慶安3年(1650)、城下では南端に位置していたので、藩主によって「南町」と名付けられました。
江戸時代のこの町は、中山道のぼりの高崎宿への入口に当たり、新田町との境には藩の木戸が設けられていました。文政10年(1827)の『諸国道中商人鑑』には、うなぎ蒲焼、御茶漬などの店が紹介されています。
町内には、和田城主和田義信によって創建された愛宕神社があります。この神社は、城下の防火の守護神として崇められていました。また、社宝に刀鍛冶長谷部義重が奉納した、長さ3尺5寸1分(106センチ)の大太刀(おおたち)があり、市の重要文化財に指定されています。

宮元町(みやもとちょう)

 高崎旧城の堀に沿って、東から西にかけて南北に細長い町です。
江戸時代、この町のあたりは、藩に仕えていた武士が集中して住んでいました。その中で米見役人や代官が住んでいた範囲を「米見町(こめみちょう)」、「代官町」と呼んでいました。また、明治維新後に江戸藩邸から引き上げてきた藩士とその家族が居住した公園東側の「南郭(くるわ)」もあり、これらを一つにまとめて明治4年(1871)に町として成立しました。
「宮元町」の名は、町の南端に位置する頼政神社のおひざもとであるという意味で付けられたものです。頼政神社の祭神は、夜毎皇居に現れて帝を悩ませた怪鳥の鵺(ぬえ)を退治したという源三位頼政で、神社は享保3年(1717)高崎藩主大河内輝貞が氏神として創建したものです。
現在の東京電力高崎営業所の場所は、明治初年まで石上寺という寺院でしたが、その後市立中央小学校の前身である「高崎学校」が明治10年(1877)に開校しました。高崎学校が常盤町に移転後は高経大付属高校の前身の、市立実践女学校が大正13年(1924)に開校しました。
江戸時代、城の南烏川の崖際には、藩主大河内家の祈願所であった真言宗の華王山大染寺(だいせんじ)という寺がありました。この寺は明治7年(1874)埼玉県熊谷の養平寺に移り廃寺となりました。この跡地を中心として、初代市長が切望していた「高崎公園」が明治43年(1910)に開園しました。また、これよりも早く、明治15年(1882)には高崎で最初の、キリスト教の教会である高崎教会ができました。

元紺屋町(もとこんやまち)

 高崎旧城下の職人町の一つで、旧市街地のやや東に位置する町です。北から西は田町、南は白銀町、東は北通町となっています。
「元紺屋」の名は、箕輪城下で紺屋職人の長をしていた宇佐見氏が、高崎移城にともなってこの町に移住し、同様に藩から紺屋支配を命じられたことによります。古くは「本紺屋(もとこんや)」と表記されていました。延享年中(1744〜48)に町名主が交代しましたが、新名主も紺屋の司となりました。古くは中・新紺屋町とも一つの「紺屋町」でした。
町内にある浄土宗の法道山弘真院善念寺の境内には、市の重要文化財に指定された鎌倉期の阿弥陀如来像があります。この寺は和田宿時代からの寺であり、本堂脇から裏の墓地内には、江戸の幕府公許、秤座の出店を継いだ荒木家の墓などがあります。
この町と東隣の北通町の間を南北に通る道は、わずかの期間でしたが、初期の中山道であった通りで、染物店や漬物店などがあって、往時の面影を残しています。

本町(もとまち)

 慶長3年(1598)井伊直政の箕輪から高崎への移城に伴い、城下町が形成されつつあったときにできた町です。
「本町」の町名は、町割りの「根本」、「基本」の意味で命名されたもので、慶長3年(1598)城の移転ともに誕生した町です。ここはまた、旧和田宿時代の中心でもありました。
江戸時代のはじめは高崎宿の問屋場が本町だけに置かれており、また、中山道に沿って町並みがあり、西方は三国街道の分岐点でもあったので、諸国の商人や、他の旅人の往来が頻繁となり、諸国の物資の集散地としてもにぎわいをみせていました。
この町は、田町、新町(あらまち)とともに「高崎三伝馬(てんま)」といわれた伝馬宿をつとめていました。「伝馬」とは、幕府ほかの公用の際に、人員や馬を出す役割のことで、町役にとっては大きな負担でした。
この町の管理下にあったのが、君が代橋あたりにあった「烏川河岸」で、筏場(いかだば)があり江戸への物資の積み出しが行われていました。後に、この筏場は高崎城の西下を通過することから、これを避けるため、下流の聖石の辺りまで下げられました。
本町から嘉多町へ出る小道に湯屋があり「湯屋横丁」と呼ばれていました。この湯屋は高崎宿では最初の湯屋といわれています。
参考文献: 田島桂男『高崎の地名』(2009年)、 田島桂男『本町今昔物語』(2004年)、 田島桂男『たかさきの町知るべ』(2000年)、 都丸十九一『続・地名のはなし』(1995年)、 高階勇輔『高崎産業経済の歴史』、 郷土出版社『目で見る 高崎・安中の100年』(2006年)、 岩波書店『広辞苑 第五版 逆引き広辞苑』、 『新編 高崎市史 通史編2 中世』(2000年)、 『新編 高崎市史 通史編3 近世』(2004年)
 
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